レアモデル

一般市販のない幻の代表ユニフォーム第3弾!1992 日本代表

第1弾の『1998 U-19日本代表』、『第2弾の1996 U-23日本代表』に続く第3弾は『1992 日本代表』です。

1998年U-19日本代表ユニフォーム
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日本代表ユニフォームが初めて一般販売されたのは1993年

1994 FIFAワールドカップ アジア最終予選で着用されたこのモデルが、初めて市販された日本代表ユニフォームでした。

後に『ドーハの悲劇』にちなんで『ドーハモデル』という名で広く知られ、ユニフォームコレクター憧れのユニフォームとなったモデルで、当時のユニフォームサプライヤーはプーマでした。

さて、今回紹介する1992 日本代表はその1年前のユニフォームです。

1992年8月、中国の北京で開催されたダイナスティーカップで国際公式大会初の優勝を飾った日本代表が、同じ年の10月から広島で開催されるアジアカップで使用するために発表されたのがこちらのモデルでした。

8月のダイナスティーカップ優勝の勢いをそのままに臨んだこのアジアカップでは、グループリーグ最終戦のイラン戦で終了間際の87分に三浦知良の劇的なゴールが決まり、UAEに次ぐ2位でグループリーグを通過。

このイラン戦後のインタビューでは、かの有名な三浦知良の名言、『思い切って、魂込めました。足に。』も生まれました。

この明言を知らない方というは、お父さんやお母さんに聞いてください。

その後、準決勝の中国戦を3-2で勝利すると、決勝のサウジアラビア戦も三浦知良のセンタリングを高木琢也がボレーで決めて1-0で勝利!

見事アジアカップ初優勝を飾りました。

さてユニフォームについてですが、1992年当時は一般市販がなかったため、こちらは選手用ユニフォームとなります

ユニフォームの内側には、当時アディダスの製品を国内製造していたデサント『ORDER MADE』タグが付いています。

ちなみにアディダスは1992年だけでなく、1995年にも日本代表のユニフォームサプライヤーを務めていますが、1995年には一般販売もありました。

1992年モデルと1995年モデルの違いは、襟もとのタグの形で判別できます。

というわけで、『ドーハの悲劇』以前のユニフォームを『ドーハモデル』と呼ぶのもおかしな感じですが、こちらが1992年から1995年まで使用された通称『ドーハモデル』のファーストユニフォームとなります

日本サッカーが本気で世界を目指し始めたあの時代を象徴する、日本サッカー史に残る1枚ですね。

ヴィンス君
ヴィンス君
日本代表ユニフォームの販売は意外と歴史が浅いので、今からでも十分コンプリートを目指せますね!