ドイツの強豪バイエルン・ミュンヘンの2000/02シーズンのアウェイユニフォームに10番 MARADONAとプリントされたこちらのユニフォーム。
『マラドーナってバイエルンにいたっけ?』と不思議に思った方も多いかと思いますが、実はこのモデル、ディエゴ・マラドーナが元ドイツ代表ローター・マテウスの引退記念試合で着用したモデルなんです。
マラドーナとマテウスと聞いてまず思い出されるのは、1986 FIFAワールドカップ決勝のアルゼンチン代表vs西ドイツ代表ですね!
この試合、55分までに2点を先行したアルゼンチン代表でしたが、西ドイツ代表も不屈のゲルマン魂で、試合終盤の74分カール=ハインツ・ルンメニゲ、80分にはルディ・フェラーと立て続けにネットを揺らし、あっという間に同点に追いつきました。
このまま西ドイツの攻勢が続き、逆転されるかと思われたアルゼンチン代表ですが、それまでマテウスの執拗なまでのマークに苦しめられていたマラドーナがついに輝きを放ち、試合終盤の83分に決勝点となるホルヘ・ブルチャガのゴールをアシスト。
アルゼンチン代表に2度目のワールドカップ優勝をもたらし、この1986 FIFAワールドカップは『マラドーナの大会』として人々に記憶されました。
続く1990 FIFAワールドカップでも両雄は決勝戦で激突。
アルゼンチン代表が準決勝で開催国のイタリア代表を破ったこともあり、決勝戦のアルゼンチン代表は大ブーイングの中の戦いを強いられ、マラドーナもギド・ブッフバルトに完璧に押さえられ、85分のアンドレアス・ブレーメのPKが決勝点となり、西ドイツ代表が雪辱を果たしました。
80年代後半から90年にかけて文字通りライバルだった2人ですが、ディエゴ・マラドーナはマテウスについて、自伝【Yo soy el Diego】(俺はディエゴ)の中で、「彼は私が対峙した選手の中で最高の選手だ。」と述べています。
そんな良きライバルだったローター・マテウスの引退記念試合にマラドーナも駆けつけ、バイエルンのユニフォームを身に纏ってプレーし、マテウスの引退に花を添えました。
“伝説”マラドーナのクラブ遍歴
折角なのでここで、20世紀最高のスター選手であったディエゴ・アルマンド・マラドーナの所属クラブを振り返っておきましょう。
地元アルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズでアルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューを果たすと、ボカ・ジュニアーズへのレンタルを経て、スペインのFCバルセロナへと加入します。
その後、当時世界最高峰のリーグだったイタリア・セリエAのSSCナポリに移籍。ここで世界最高のスター選手としての名声と薬物使用やマスコミとの確執によるによる挫折を味わいます。
イタリアサッカー協会より15か月間の出場停止処分を降され、イタリアを追われるように後にしたマラドーナが再起をかけ次のステージに選んだのは、当時Jリーグ開幕に向け準備を進めていた名古屋グランパスエイトだったと言われています。
しかし、ほぼ決まりかけていたこの話もコカイン使用疑惑により立ち消えに。
その後、FIFAが移籍交渉に介入し、1992年9月にスペインのセビージャFCに加入します。しかしここでも当時のカルロス・ビラルド監督と対立。
レアル・ブルゴス戦で後半開始早々に途中交代を命じられたことに激怒し、アルゼンチンへと帰国してしまいました。
1993年10月にはアルゼンチンのニューウェルス・オールドボーイズに移籍し、アルゼンチン代表にも復帰を果たしますが、練習不参加や試合の欠席を理由に1994年月に解雇されてしまいます。
1994年 FIFAワールドカップには無所属の状態で参加。1次リーグナイジェリア戦後のドーピング検査で禁止薬物が検出され、FIFAから15か月の出場停止処分が下りました。
出場停止処分明けの1995年10月、14年ぶりに彼の『心のクラブ』であるボカ・ジュニアーズに復帰。
ここで現役最後の期間を過ごしました。
今後も定期的にマラドーナのユニフォームに触れていきます♪