選手ヒストリー

“最後は岡野” 秘密兵器から歓喜の主役へ! 1997年『ジョホールバルの歓喜』モデル!

1997年日本代表の岡野雅行のユニフォーム

日本代表を愛するサッカーファンにとってのベストワード。
『ジョホールバルの歓喜』

日本代表が初めてワールドカップ出場を決めた1998年ワールドカップ・フランス大会のアジア最終予選。
アジア第3代表決定戦でのイラン代表との試合。

今回はその当時の空気を振り返ってみます。

今では考えられない過酷な最終予選

加茂周氏を監督としていた日本代表。
1998年ワールドカップのアジア地区の出場枠は3.5枠
1次予選を首位突破した日本代表はグループBに入りました。

【グループB】
ウズベキスタン
アラブ首長国連邦
韓国
カザフスタン

ホーム&アウェー方式の総当たり方式で、当然日本はストレートインの1位通過を狙っていました。

初戦のウズベキスタン戦ではカズこと三浦知良選手(今でも現役!)の4ゴールで6-3と快勝。1997年日本代表の三浦知良のユニフォーム

ヴィンス君
ヴィンス君
この時は「余裕でいける!」と思っていました

初戦を快勝した日本代表でしたが以後3試合を2分け1敗と大ブレーキ。
その1敗も韓国代表を国立競技場に迎えた、負けられない一戦での逆転負けでした。1997年の韓国代表のホン・ミョンボのユニフォーム(1997年 韓国代表 ホン・ミョンボ)

この時点で目標だった首位突破がほぼ不可能に。
カザフスタン戦後に加茂周氏を更迭
アシスタントコーチだった岡田武史氏が暫定監督に就任しました。

その後はアウェーでなんとか勝ち点を拾い、アラブ首長国連邦戦後の国立競技場ではサポーターの暴動にまで発展する状況となりましたが、グループリーグ最終戦でカザフスタンを相手に5-1の快勝。
運命の第3代表決定戦への出場権を獲得しました。

舞台はマレーシア・ジョホールバル

第3代表決定戦は中立地での一発開催
開催地のマレーシア・ジョホールバルには日本から多くのサポーターが訪れ、日本企業や日本人学校もあり、練習場などの支援を受けホームのような雰囲気に。

そして1997年11月16日。
ラルキン・スタジアムは青に染まりつつも、4年前の悲劇を引きずった緊張感もある独特な雰囲気となっていました。

39分に中山雅史選手のゴールで先制しリードして前半を折り返すも、46分、58分にイラン代表に連続でゴールを奪われ逆転を許す展開。
逆転された直後に岡田武史氏は三浦知良・中山雅史の2枚替え
城彰二と呂比須ワグナーを投入。

衝撃の「カズ・ゴン替え」
なのですが、この試合も予選全体を通してもチームはすでにこの選手が中心になっていました。1997年日本代表の中田英寿のユニフォーム当時、20歳のヒデこと中田英寿
ヒデは逆転されても冷静に試合を分析していました。

秘密兵器投入

それまで予選での出場が全くなかった岡野雅行に岡田武史監督は「秘密兵器だから」と言っていたそう。
しかし、「FWが2枚変わって呼ばれないという事は出番がないんだ。」と思ったそうで、出場はほぼ諦めていたんだとか。

試合は2枚替えが功を奏し、75分にヒデのクロスに城彰二が合わせて意地の同点弾。
試合はその後、運動量も全体的に落ち始めゴールデンゴール方式の延長戦に進みます。

その時、勝負師・岡田武史が動きます!
「オカノー!!」1997年日本代表の岡野雅行のユニフォームナンバー14。
秘密兵器・岡野雅行投入です。1997年日本代表の岡野雅行のユニフォーム本心は、「こんな大舞台でやめてくれ」。
とナーバスな状態でピッチに飛び出していったそう。
そんな心理状況もあったのかGKとの1vs1をシュートを打たずにパスをしてしまったりと、決定機を度々外してしまいました。

ベンチ・スタンドからは怒号が飛び、日本中の注目が自分に集まっていて「このままでは日本に帰れない」と思いながらも時計は進んでいきました。

PK戦も近づいた118分、相手ボールをプレスバックした呂比須ワグナーがマイボールにし、ヒデにパス。
ドリブルで運び、ペナルティアーク付近で体制を崩しながら左足でシュート。

GKがボールを弾きましたがその先にいたのが、岡野スライディングでゴールへ流し込み、その瞬間ゴールデンゴール方式だったため試合が終了し、フランスW杯の出場権を獲得しました!

危うく試合続行?

余談ですが、この試合をさばいた主審であるスペイン人のマヌエル・ディアス・ベガ氏はゴールデンゴール方式を理解しておらず、キックオフをしようとしたため岡田監督とAFCの主催者が説得。

イラン代表監督は「主審がやるって言ってるんだから」と試合続行を支持しましたが、説得と説明の上、無事に試合は終了しました。

ヴィンス君
ヴィンス君
歓喜の裏ではこんなエピソードがあったとは・・・

思い出深い 炎モデル

今後日本代表がどんなW杯予選の試合を迎えても、この時以上の歓喜や熱狂は無いかもしれません。
当時adidas、Puma、asicsの3社が持ち回りでサプライヤーを担当していましたが、1997年、歓喜の瞬間を刻んだのはadidas社製のユニフォーム
ドーハ時代とは異なる炎のプリントが袖に入り、前年の1996年はPUMA社がサプライヤーでした。1996日本代表のユニフォーム

 

また、2017年には「キリンチャレンジカップ 2017」のシリア代表戦においてW杯初出場20周年を記念したユニフォームを着用しました。2017年の日本代表のユニフォーム両袖の炎に加え、襟元には赤いデザインも復刻され、当時の熱狂を現代に再現されました。

ヴィンス君
ヴィンス君
日本サッカー史では避けて通れない栄光の証。
日本国民憧れの1枚です!